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◆◆◆◆音楽の記(二)

Music Essay no.2. (200511)

 

 

音楽批評・橋本努

 

 

このページは、私の趣味で音楽作品を紹介していくというコーナーです。お気に入りの音楽をランダムに批評していきます。皆様からいろいろなコメントをお寄せいただけると嬉しいです。

 

 

[21]

Paco de Lucia

La Fabulosa Guitarra de Paco de Lucia

Philips 1967

スペインが生んだ至宝のギタリスト、パコ・デ・ルシア。その彼が若干二十歳で録音した初ソロ・アルバムである。フラメンコ音楽の伝統を正当に継承しつつ、驚くべき技術と気迫をもって、一つの完成された世界を創り出す。その威風堂々たる演奏は、はたちの青年とは思えない到達点を示していよう。スペインの精神をこれだけ見事に表現したものを、私は知らない。貧しい家庭に生まれたパコ・デ・ルシアは、父親からフラメンコ音楽を徹底して教え込まれたというが、その音楽は、上流文化のもつ存在の祝福とは無縁の、厳しくも美的で、高貴な存在感を放っている。〈不朽の名盤〉という名に相応しい一枚だ。

 

[22]

Pat Martino

Footprints

32Jazz 1997 (originally released in 1975 on Muse Records)

 道化師的な卓越性を示すパット・マルティーノのギターは、このアルバムではしっとりとして深みがある。「あなたはこれから、残りの人生をどうするのか」という問いにふっと直面する瞬間。その瞬間に、これまでの人生の道程がまるで異次元の空間に「足跡」を残してきたかのような幻影にまどろむ。暗い闇の中に足跡を移して、われわれの魂をどこまでも遠くに運んでいく。そんな魅力を持ったアルバムだ。70年代の録音であるが、時代を超える普遍性をもった「都市の感受性」を表現する。それは都会の霧に包まれた静寂に走る旋律であり、儚く切ない耽美的叙情性を描いた傑作である。マルティーノとともに、夜の思索に耽りたい。

 

[23]

Glenn Gould(グレン・グールド)

J. S. Bach: Goldberg Variations, etc.(バッハ:ゴールドベルク変奏曲)

Sony Records 1992 [originally recorded in 1955, 1957]

バッハのゴールドベルク変奏曲に斬新な感性を注ぎ込んだ名演、霊感に満ちた若きグールドの、記念すべき処女作である。他の解釈に囚われることなく、自由な精神をもってバッハの音楽と向き合うその姿勢に、私は大きな感動を覚える。演奏は、細心の注意深さと即興の飛翔とを同時に備えており、これこそが古典を現代に蘇えらせた傑作なのだと実感する。古典と現代、情熱と演奏術、耽美と規律の美、悲哀と青春、伝統と斬新さ、速度と滞留、光と影、等々、ここにはそうした芸術表現のすべてが凝縮されて、一つの完成された世界をなしている。「完成」とは、そこに一個の生命すべてが賭けられた時間の流れに他ならない。グールドが放つ音は、厚い伝統の中から飛び出た魂の、一つの結晶である。

 

[24]

Glenn Gould(グレン・グールド)

J. S. Bach: Goldberg Variations, etc.(バッハ:ゴールドベルク変奏曲)

Sony Records 1982 [recorded in 1981]

 1955年に処女作「ゴールドベルク変奏曲」でデビューしたグールドは、1982年に50歳で亡くなるその直前に、もう一度この「ゴールドベルク変奏曲」の録音に挑戦している。55年の録音が若き飛翔であるとすれば、81年のこの録音は、グールドがこれまで歩んできた人生の到達点を示していよう。音のテンポの緩急は深い考察に支えられ、技巧的な部分は旧盤よりもさらに練られており、ゆったりとした部分は音の響きが多方向的で開放的である。しかしこのアルバムの最大の魅力は、人生を深く考察してきたグールドの、一つの終極性を表している点にあるだろう。「私が歩んだ人生は、結局、こういう音楽に集約することができるのだ」という完成の理想だ。人生はかく在りうるということに、感慨深い思いがする。

 

[25]

Zoltan Kocsis (p)

Bela Bartok: Works for Piano Solo 1-4

Philips [recorded in 1991]

 ハンガリーの鬼才ゾルタン・コチシュが、同国の作曲家バルトークのピアノ・ソロ曲を全四枚に吹き込んだ。それはまさに神業とでも言うべき作品群だ。神業といっても、ポピュリスト的な崇拝の意味ではない。演奏は高度に鋭敏な洞察に満ちており、一つ一つの音が深い考察に支えられて、まったく新しい次元を開示する。バルトークのピアノ曲はどれも1-2分程度の小品であるが、それらはコチシュによる徹底した解釈を待たなければ、おそらくこれほど高度な作品として生まれることはなかったのではないか。音色の驚きとその美しさ、そのすべてが心の襞を直撃する。ピアノソロのアルバムとして、私が最も評価するのはこのコチシュ。バルトークの世界を深く掘り下げた瞠目すべき達成である。

 

[26]

King Crimson

Discipline

EG Records 1981

 キング・クリムゾンのアルバムの中で、最高傑作にしてデビュー作「クリムゾンキングの宮殿」の次にどれがよいかと問われれば、私は迷わずこの「ディシプリン」を挙げたい。中学生の時分からこのアルバムを聴きこんできた私にとっては、必然である。聴けば聴くほど、その奥深さと音楽性に魅せられていくアルバムだ。その圧倒的なメロディと音作りの独自性には、古典と呼ぶに相応しい大いなる肯定の勢いがある。なるほどこの作品は、処女作「宮殿」に見られる狂気とファンタジーの融合というテーマを欠いているが、別の基準からみて、ロック史上最高のサウンドであると言うことができる。それはある平面に厚みをもって複雑に構成された、野性的な抽象絵画のタペストリーであり、あるいは、怒涛の「うねり」をもった「差異と反復」(ドゥルーズ)の知性であるだろう。

 

[27]

Billy Cobham

Spectrum

Atlantic 1973

 ロック史上に残る孤高の名盤、高踏不良美学の誕生である。ビリー・コブハムの超絶なドラミングが疾風怒濤のごとく炸裂し、ヤン・ハマーのエレキピアノとシンセサイザーが挑戦的な閃光をとどろかす。演奏全体が前のめりになって抉るように進み、終まいには肉体の臨界点にまで到達する。繰り広げられる非日常の世界に、音楽固有の陶酔がある。技巧的に魅せるシンセサイザーの美学と、耽美的なまでに渋くて深いベースとドラムのコンビネーション。70年代的なリズム・サウンドのこの構成は、不良少年がダンディーな大人へと成長していく途上に歩む一つの道に他ならない。強度ある生活を掘り下げるための、「決まり」のアイテムである。

 

[28]

John Cage

Ryoanji(龍安寺)

Hat Hut Records 1996

 六世紀後半の日本仏教が切り開いた枯山水の美学、そして十五世紀に完成した竜安寺石庭の美学は、20世紀の音楽家ジョン・ケージによって、新たな美の眼差しを得ることになった。「石庭」はそれ自体がニマリストの芸術であり、音楽におけるミニマリストのルーツとして位置づけることもできるだろう。ケージはこの作品において、音を徹底して簡素にしつつ、そこに木や石や砂といった自然のもつ精神的なアレンジメントを表現する。十五の石の配置を一つの打音が追い、様式化された幽玄な水の流れを、フルートやオーボエが辿る。線を滑らかにたどる音が、不規則に、しかも、いつ始まるとも終わるとも分からない時間の流れを創り出す。それぞれの音のあいだに残る「無」の空間は、精神の「虚空」なるものの表現である。1962年に竜安寺の石庭を訪れたジョン・ケージは、1982年にこの曲を完成させている。

 

[29]

林光合唱作品集

木のうた・鳥のうた(Choral Works by Hikaru Hayashi)

Fontec 1999

 疲れた心にぐっと染みこんでくる音楽、まるで魂が溶け出て、世界に広がっていくようだ。林光の80年代の作品、これはもう、私が手放しで絶賛したい一枚である。混声合唱とピアノのメロディが相互に独立した豊穣性をもっており、それでいながら全体が結晶のような輝きを放っている。コロスと生命の息吹を表現した最高の作品だ。「地(つち)のなかから 吸いとられたものは もういちどまた 地にもどっていく そのとき木は かならずふるえる」。この温もりは、どれほど私の心を癒してくれことだろう。後半の「鳥のうた」も、簡素でありながら深い抒情性をもった作品だ。笛のパートが、ピーチク、パーチクと、小鳥の合唱のように加わり、演劇的な空間を演出する。風邪を引いてしまったら、私はいつもこのアルバムに頼っている。

 

[30]

Larry Coryell

L’Oiseau de Feu, Petrouchka(火の鳥、ペトルーシュカ)

Philips

 学部生の頃にたまたま大学祭の出店で見つけたこのアルバム(当時はLP)を聴いて、当時の私は立ち直れないほどの衝撃を受けてしまった。多感な青年時代に、遭遇すべくして遭遇した稲妻のような電撃である。フュージョン界で定評のあるギタリストのラリー・コリエルが、このアルバムではギター一本でストラヴァンスキーの大曲に挑戦する。そしてその演奏は、他人を寄せ付けない、鬼のような凄みを持っているではないか。なんという激しくも孤高のパッションであろう。多面的な音楽性をもつコリエルの作品の中で、これほど人生の賭けに出たアルバムを私は知らない。もはやフュージョンを聴いていられなくなってしまった。このアルバム一枚が私の人生よりも重みがあるということを、当時の私は直感したのであった。

 

[31]

Erik Truffaz

Mantis

Blue Note 2001

 近未来的なイスラム・ジャズの誕生である。イスラム型ポスト近代の若者たちがかかえるであろう内面的思索の美学などというものは、いまだ予感でしかないのだが、それをすでに音楽が先取りしてしまったようである。アシッドなスネア・ドラムが鋭くも平面的なリズムを刻む中、抑圧と狂気のあいだでギターが踊りだす。ウッド・ベースの表現力も効果的で、音のあいだの静的な空間に一瞬のスキットを侵入させてくる。音楽はやがてトランペットの奏でる壮大な精神空間へと私たちを連れ出し、リリシズムに満ちたその音色が辺り全体に反響する。ジャズのルーツをアフリカに辿れば、そこにはすでにアラブ音楽の影響がある。そのアラブのルーツを近未来的な空間に復活させたのがこのアルバムだ。耽美的なイスラム近未来青年のために、この一枚を記念したい。

 

[32]

Branford Marsalis Trio

The Dark Keys

Columbia 1996

 恐ろしいほどまでに透徹した至高の芸術、群を抜いたジャズ・トリオである。ジャズの音楽から媚を売る要素を排し、安寧な心地よさを排し、テクニックの見せつけや斬新なアイディアによる驚かしの要素までも排す。しかもそこから、音楽が人の内面に響かせる要素を排して、ジャズ特有の会話的駆け引きといったものまでも排しているのだが、いったい、そこに残る音楽だけを取り出してみると、これは一つの驚異である。残された要素こそ、真の芸術にふさわしいのだ。抽象芸術を生み出すことそれ自体をテーマとして、ジャズの可能性を徹底的に追求した一枚、音楽史上に残る最高の到達点であるだろう。タイトルにある「ダーク・キーズ」とは、一つのスタイルを徹底して追求した音楽家が、深く沈潜した探求の末に発見したコードのように思われる。

 

[33]

Hargen Quartett

Mozart: Die Haydn Quartette (The 6 “Haydn” Quartets) 3vols.

Deutsche Grammophon 2001

 バルトークやコダーイなどの現代曲を自在にこなしてきたハーゲン・クァルテットが、結成から約20年を経てもう一度向き合ったモーツァルトの作品群は、現代の演奏技術を駆使して生まれた知のエスプリである。閉めるべきところで浮かし、情感を込めるべきところで加速する。モーツァルトの既成観念は換骨奪胎され、四重奏の色彩が可能なかぎり追究されている。その解釈は、主知主義の危険な革命ですらあるだろう。かすれた弱々しさと狂気が繰り広げる音の美学が、モーツァルトの楽譜から可能になる。一つ一つのバイオリンに耳を澄ませると、かなり考え抜かれているようで、そのすべてが有機的な流れを構成する事実に、あっと驚かされる。革新的ではあるが、演奏者たちの演奏はすっかり身体に馴染み、受肉化した自然さがある。現代の古典と呼ぶにふさわしい。

 

[34]

Steve Coleman Group

Motherland Pulse

JMT 1985 Winter & Winter 2001

 このあまりにも手を抜いたジャケットの絵から想像することはできないが、80年代のジャズを代表する傑作、いやむしろ、時代を代表しない稀有の傑作といったほうがいいだろう。独創的なメロディ=ソロの展開、細心の技巧、緻密で完璧な構成、大胆かつ母性のように安定したサックスの音色、……。これだけ斬新な演奏であるにもかかわらず、演奏家たちは、時代の先を読むという「気負い」を見せていない。すでに、母なる大地に達しているのである。またその境地の幽玄な神秘性は、聴く者を不思議な無時間空間へと連れていく。ポストモダンの軽薄な時代から抜け出て、いつまでも古くならない古典となった一枚だ。ジュリ・アレン(ピアノ)とカサンドラ・ウィルソン(ヴォーカル)の若き感性にも、すでに王者の貫禄がある。このCD80年代の同時代に聴かなかった私は、とても後悔している。もし同時代に聴いていれば、当時の私の時代認識を根底から変えたようにも思うのである。

 

[35]

Henri Texier/ Azur Quintet

Strings’ Spirit

Label Bleu (France) 2003 LBLC6648/49

 そうだ、これだ。これが歩むべき道だ。はじめてこのアルバムを聴いたとき、私は人生後半の旅路に広がる漠たる不安に対して、一つの指針を得たような気がした。何かに縋(すが)りながらも、心の奥底に大いなる肯定の感情が沸いてくる。「これでいいのだ、これでいこう。」ウッド・ベースとスネア・ブラシの慎重なリズムに支えられながら、クラリネットやストリングスが奏でるメロディに、静かに「肯」と頷づくことができる。そして手を握りしめ、リズムとともにゆっくり歩み始める。アヴァンギャルド青年が迷いに迷ったのちに進むべき道とは何か。その答えがここにある。破壊的でありながら上質で麗しく、哀愁のなかにありながら、力強く瑞々しい。演奏家たちがこれまで奏でてきたすべての不協和音が、人生の叙情的主題化へと向けて耽美的に通じているようだ。とくにDisc 1 三曲目のSerious Sebは、人生の道しるべとしたい。

 

[36]

上原ひろみ

Another Mind

 

 エマーソン・レイク&パーマーの代表作「タルカス」を凌ぐベース・ラインである。しかもこれは、真剣勝負の演奏だ。気迫とグルーヴにあふれる第一曲目を聴いたとき、忘れかけていたプログレなる音楽の本質が、鮮やかな感動とともに蘇えってきた。およそ日本人ほど世界的にプログレッシヴ・ロックの音楽に通じたリスナーはいないが、そのリスナーたちを唸らせる本物の才能が現れたことを喜びたい。上原ひろみのピアノは、知の逞しき精神を探究しながらも、しかしその精神をすべて沸騰させてしまうだけの熱い野性をあわせもつ。これはジミー・ヘンドリックスやフランク・ザッパなどに共通する音楽の野性魂を、現代ジャズにもちこんだ快作であろう。上原の第二作目「Brain」も第一作目を凌ぐ勢いだ。演奏の一つ一つが、真新しい感性によって実存全体を投企するような、強度の緊張感に支えられている。

 

[37]

Bulgarian State Radio and Television Female Vocal Choir

Le Mystère des Voix Bulgares Vols.1-2.

Elektra Nonesuch (Explorer Series) 1987/88

 生の苦悩を天上の響きによって昇華するブルガリアン・ボイス。すぐれた女性ボーカルの発掘・抜擢・訓練によって徹底的に磨き上げられたその調べは、たんにブルガリアの民族の誇りとなる文化的結晶であることを超えて、これまで世界の人々を、深い精神的世界へといざなった。さまざまな名盤があるだろうが、そのなかでもこのCDは、1957年から1985年までの録音の中から、上質の音楽を妥協なく伝えるレーベル、エレクトラ・ノンサッチが選んだベスト版(2枚)。内なる声のミクロ・コスモスに、高校生の頃の私もまた心を奪われた。生の受苦とは、民族として与えられるがゆえに宇宙論的な広がりと奥行きをもつのだろうか。受苦が癒される聖なる共同体へと吸い寄せられながら、その世界は、自らが精神の内部に没入する際に現れることに気づく。

 

[38]

Nusrat Fateh Ali Khan

En Concert a Paris 1-4

Ocora Radio France 1997

 大学生の時分にヌスラート・カーンの音楽を聴いて、この脂ぎったおじさんの神秘的な熱唱に、度肝を抜かれてしまった。この音楽の魅力は、すべてを厳格に受けとめようとするイスラム教の精神世界に、ヒンズー教の優美で魅惑的な「陶酔」の感覚を融合させたところにあるだろう。イスラム教は音楽そのものを禁止するが、ヒンズー教は艶美な陶酔音楽の文化そのものである。この二つが融合して、見事なほど完成度の高い音楽が生まれているのだから驚きだ。現世内的生活において、生活のすべてを音楽の規律と陶酔の中に巻き込んでしまう点に、カーンの至芸があると言うべきか。カーンの声には「狂おしき精神の強度」がある。その音楽は、宗教的行為のための舞台的効果を狙ったものではなく、音楽を通じて精神の高き境地へと登っていく。

 

[39]

Guem Zaka

Percussion

Le Chant du Monde 19781985

 フランスから発信されたアフリカン・ドラムの最高傑作ではないか。無限に多様な打ち方と音色をもつアフリカの打楽器を、これほどまでに使いこなした作品を私は知らない。一つ一つの太鼓の音色が洗練されているだけでなく、その意外な組み合わせから生まれる色彩、多数のタムの音色が生み出すメロディアスな音階構成、グルーヴィーな流れに沿うような音の抜け方、等々、どの技術をとっても、ひたすら感心してしまう。複雑な打楽器の音を組み合わる過程が面白い。しかもため息が出てしまうほど、完成度が高い作品だ。ドラムの組み合わせからなる音楽は一般に、リズムを繰り返す過程で精神を狂乱状態(祝祭的なエクスタシス)へと誘うが、しかしこのアルバムで反復されるリズムは、その狂乱をつねに遅延化して、リズムの規律と新たな展開を与えていく。狂乱状態一歩手前の緊張が全編にわたる作品だ。

 

[40]

Black American Freedon Songs 1960-1966

Voices of the Civil Rights Movement vols.1-2.

Smithonian Folkways 1997

 アメリカのスミソニアン協会から発売された資料的価値の高い作品。一九六〇年代のアメリカにおける公民権運動の過程で、黒人たちが解放を求めて歌った曲を編纂したアルバム(全2巻)である。教会や野外で歌われた当時の音源であるから、歌い手と聴衆が一体化した臨場感があり、その肉声は気迫と希望に満ちている。アメリカにおいて「自由」とは、最初から保障されていた権利ではなく、市民運動の中で積極的に勝ち取られていったものだということ、しかもその過程で、爆発的な文化的変動を伴っていたことに気づかされる。とくに、黒人たちの解放ソングがもつ政治的表現力と自尊心のエンパワメントは、感動的だ。Freedom, Give us freedom! No segregation over me! 自由という理念がこれほどまでに希求された時期に、自由主義者たちはヒューマニスティックな感動の原点をもつ。